元禄9年7月24日、当時界隈を騒がせた「大野の撫切り」という事件が発生しました・・。
事件の三日前、佐竹藩家中随一の権力を握っていた家老「梅津半左衛門」の家来の「黒沢市兵衛」という武士が秋田の城下にほど近い仁井田(村)の古川で釣りをしていました・・。
そこへ草を山ほど積んだ百姓の操舵する筏舟が通りがかり、黒沢市兵衛が垂らしていた釣り糸に絡んでしまったんだそうです・・。
当時武士と百姓の身分の差は歴然としていたので、たったそれだけの事でも死罪に当たるらしく怒った黒沢は「無礼者!」と舟に乗っていた百姓を刀で斬りつけようとしました。
だけどそれがたまたま気の荒い百姓だったらしく、通常あり得ないあり行為なんですが予想外にも竿で反撃してきて、ついでに近くにいた百姓仲間までも加勢してたもんで逆にボコボコにやられてしまったんだそうです。
翌日、黒沢からこの事を聞いた梅津半左衛門は侍のメンツに関わることだと激怒し、下手人を探しましたが、その気の荒い百姓も加勢した奴らも隣村まで逃げたり隠れたりして、三か月も捕まえることが出来なかったんだそうです・・。
そこで梅津は一計を案じ「今回の件、百姓でありながら武士を懲らしめたとはアッパレなり。
村人一同に褒美を与える。よってうち連れて小屋まで参れ」と立札を立て、裏では「来たものは皆殺しにせよ!」と部下に命じたんだそうです・・。
悪いジジイですね・・時代劇の悪代官そのものじゃんか・・(^_^;)
人の良い?百姓たちは「殿様が褒美をくださるとよ」と喜んで小屋へやってきたたんですが、それを予め数人の家中の武士が待ちかまえて中に入った途端、一刀のもとにバッサバッサと首を切っていったそうです・・。
最後(二十二人目)に小屋を訪れたのは仁井田村の顔役をつとめる工藤七郎右衛門という百姓でした・・。
七郎右衛門はご褒美は一体何を貰えるんだろうと勇んで一張羅の羽織袴をつけ小屋の入口に立ち「顔役ただいま推参」と得意げに入った所を、同じようにばっさりと一刀両断にされたそうです。
現代にもこーいう人は居そうです・・(^_^;)
武士達は百姓を切ったあと、心の高ぶりを凱歌に代えて城下に引きあげる途中、自分の愚かな命令を悔いた梅津半左衛門が「百姓斬るに及ばず」と伝えるために
飛ばした早馬と遭遇したんだけれど、時既に遅し・・。
武士たちはその早馬に乗ってきた伝令に「すでに切り上げ申候」と答えたんだそうです・・。
この言葉がそのままこの地の部落の名となり、現在秋田市から仁井田字大野に向う途中の国道沿いの地区が”切り上げ” “切上”となった謂れだそうです・・。
たぶんこの小さな用水路みたいなのが事の発端になった古川・・。
この右手に広がる田んぼがその百姓たちの仕事場だったんでしょう・・。
荒涼としていて時折、吹雪が吹きすさんでいました・・。
この時に斬られた百姓たちの位牌が今も仁井田の国道沿いにある「東光寺」にあり二十二人の名を刻んだ五輪塔が墓地に立っているそうです・・。
もしかしてこれでしょうか・・。
300年以上も前の逸話ですが・・最後に銭形平次や大岡越前みたいな正義の味方が出て来るわけでもなく・・なんだかやるせない話ですね・・。
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