猫婆(おにばば)の墓・・。
秋田市泉に建立されている天徳寺の佐竹家霊廟の左に、三代目藩主佐竹義処公の側室(覚性院 清子)の墓がある・・。 その墓は何故か一つだけ木製で、明治維新の頃まではシメ縄をかけてあり、人々は「猫婆(おにばば)の墓」と呼び、近づ…
秋田市泉に建立されている天徳寺の佐竹家霊廟の左に、三代目藩主佐竹義処公の側室(覚性院 清子)の墓がある・・。 その墓は何故か一つだけ木製で、明治維新の頃まではシメ縄をかけてあり、人々は「猫婆(おにばば)の墓」と呼び、近づ…
文治6年(1190年)1月、蝦夷地遠征のため八郎潟の氷上を渡ろうとした大河兼任の軍5000人が溺死した・・。 通常なら厚い氷の平原になる場所なのだが、その年は暖冬で馬場目川の河口の深淵では氷が薄くしか張っていなかった為の…
僕のオヤジの名前が利部敬次、そのまたオヤジが雄治郎(祖父・別項参照)、そのオヤジが銀平、そのまたオヤジが礼蔵と言います・・。 明治初期、この利部礼蔵さんに、河童から薬を授かったという嵯峨家からセンさんという方が嫁いできた…
『大平山の麓、秋田市太平目長崎に国定重要文化財に指定されている嵯峨家住宅がある。 江戸時代には界隈の肝煎(村おさ)を代々務めた家柄で、文化九年には紀行家の菅江真澄が宿泊し随筆「月のおろちね」を遺している。 また秋田藩主が…
阿仁鉱山が栄えていた頃(1716年・産銅日本一)大覚野峠に一軒の茶屋があった・・。 表向きは優しい顔をした爺さま(安兵衛)が一人で営んでいる茶屋(旅館)であったが、裏では旅人を吊り天井の部屋(竹槍の付いた天井を縄で釣り標…
『現在、秋田県美郷町飯詰字東山本はJR後三年駅を取り巻く界隈屈指の繁華街になっているが、かつてこの辺りは広い柳林に覆われていて、そこには俗に「姥揚げの堰」と呼ばれている場所があった。 姥揚げの堰は、夜ともなれば無数の狐火…
秋田県立図書館所蔵の古書に下記のような記述を見つけました・・。 「本荘親川にある小柳沢は元禄の時代から親投げ沢であった」・・と。 親投げ沢(おやなげさわ)という地名だと体裁が悪いので、現代になってから当て字を使って小柳沢…