「天保巳年(1833年)の飢饉は前後数年続き、死者が道端にゴロゴロ溢れていた。またその頃は生まれたばかりの子供を山に捨てたという。藤里町の十六貫の向え沢を『赤子沢』と呼ぶのは、その子捨て場に行かなければならない母親の嗚咽と、置かれた赤ん坊の哭き声が聞こえるからと言われている・・。」
近々、手向けの花を供えてきたいとおもいます・・。
「天保巳年(1833年)の飢饉は前後数年続き、死者が道端にゴロゴロ溢れていた。またその頃は生まれたばかりの子供を山に捨てたという。藤里町の十六貫の向え沢を『赤子沢』と呼ぶのは、その子捨て場に行かなければならない母親の嗚咽と、置かれた赤ん坊の哭き声が聞こえるからと言われている・・。」
近々、手向けの花を供えてきたいとおもいます・・。
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