雄物川町にある「うすい、かみうすい」から車で10分ほど秋田市方面に向かうと・・カーナビに超どストレートな地名「女郎出」「女郎出尻」が表示され、アゴがハズレそうな程ビックリします・・。
だって・・今風に言うと「ソープランド嬢輩出の地」って公言してるって事でしょ・・(^_^;)
ということで、詳細は後程・・。
雄物川町にある「うすい、かみうすい」から車で10分ほど秋田市方面に向かうと・・カーナビに超どストレートな地名「女郎出」「女郎出尻」が表示され、アゴがハズレそうな程ビックリします・・。
だって・・今風に言うと「ソープランド嬢輩出の地」って公言してるって事でしょ・・(^_^;)
ということで、詳細は後程・・。
この記事が気に入ったら
いいねしよう!
最新記事をお届けします。
紀之小鹿郎女は元は安貴王の奥さん。現在の皇室の、男系天皇家に継る同じルーツ、いや、天皇家のご先祖なのです。この子孫が現在も存続しる西園寺家のご先祖の所領の荘園の管理をしてました。地頭をつとめてました。この方は名を小鹿入道阿念といいます。この方は紀之国の貴志荘の一族であります。その方はさっきの郎女の旦那さまということ。で、子孫は後には清和源氏の小鹿氏になりますけども、所領地が今の静岡、伊豆にありました。僕の土地の名が小鹿で、今もその名は現存してます。治承年間当時の頭領の名を小鹿総右衛門といいます。この総右衛門の時代に打倒平家撲滅の為に決起したのが源頼朝です。当時の平家はご存知の通りですね。このときに比叡山延暦寺の天台宗の座主である明雲が平清盛にある騒動の責任を負わされて罪として遠流の刑にされて、遠く伊豆の地に流される羽目になりましたが、史実はこの最中に都で罪を赦免されて信徒の手で奪還されて比叡山に戻ったことになってます。が、事実は当家のものと違ってます。この伊豆の地に、実際は流されてこの小鹿の領地で長年暮らしてるのです。そして、たまたまある日のことですが、この総右衛門、なんと、山で狩りをしていて、こともあろうに、親子猿を殺生してしてしまいましたが、それを散策していた天台座主の明雲大僧正の目に入り、それをとても強く諌めたそうなのです。猿も生き物である上に親子の情は人と変わらぬものだと叱責したとある。また、こうしたこのをしたのだから、必ず仏罰を受けるぞとも。この言葉を鼻で笑ったとあります。この総右衛門は気性が粗野で乱暴者だったとされてる。で、それから間もなく、奥さんと子供らが原因不明の病で次々に亡くなったのだそうですよ。それで総右衛門は深く悲しんでその罪の重さを思いながらも、あのお坊さんの事を思い出して何度も訪ねてはそのことを懺悔したいからと述べて、信心して身の回りのお世話や使いをして暮らしたそうなんです。で、このあたりで京からの頼りで赦免されて明雲が比叡山に帰国というお話です。で、総右衛門は名を蓮印と変えて一緒に比叡山に行くことになった。とあり、たまたま、あの治承年間の乱に巻き込まれそうになひましたが、ある日のこと、連印は呼ばれて大僧正の命令をうけます。それは、天台座主の大僧正が日頃から大事にしてきた阿弥陀如来像が戦禍によってこの世から消え去ることを憂いて、これを背に背負いながら、全国を行脚して布教しながら佛の悟りを民衆に伝えていきなさいとして渡されたそうなんですよ。それは、今でも青森県弘前市の市立博物館に所蔵されて展示されてますし、この阿弥陀如来像にある曰くを書き記した巻物も展示されてます。この小鹿総右衛門こと連印は遠く最果ての岩木山の麓にある賀田という地に小さな庵を建てて長く住み暮らしたとある。その際に植えた杉は時を経てその杉が、道路の拡張の邪魔だとされて近年悲しくも伐採されてしまったのです。その幹の太さの直径がなんと6メール近くあり、その切り株は今もあるそうめす。この仏像と巻物を保管していた弘前の寺院が、吉祥院と言います。またこれを保管していたのは太田さんといい、、この仏像の数々の吉祥を体験して阿弥陀如来像を守ってきたご先祖の末裔にあたるそうです。時代考証が必要ですし、また、詳しく調べなくてはなりませんけれども、平安時代、鎌倉時代、、戦国時代になってからは、当時の駿河の国を治めてた今川家の次男が小鹿満範なのですが、今川家の長男しか氏名の今川を名乗れなかったので、長男以下は違う姓でなのったのだすよ。で、たまたま次男はその土地の名が小鹿だったためにそれを使い名乗ることに。。。おわこりでしょうが、その地の持ち主は総右衛門の領地であったが、故に歴史に名を留めたとも言える。それはですね、あの北條早雲に暗殺されて戦国時代に僅かばかり名を留めてますよ。一旦滅ぼされてた後には岡部氏の家臣として生き残ってますが、岡部氏とは同族でもあるのです。その家臣時代に徳川家の家臣として岡部氏も数々の戦に参加してますが、真田氏との決戦の折に真田相手に一番槍をつけて、その武勇を家康に認められて家康から冠状をもらってますよ。この証拠は家康があたえた各種の証印と共に記録にもみえてあり、その一番槍をつけて戦勝の先手として褒められた人物の名は小鹿又五郎と言います。この武勇を知って家康は次男の結城秀康が北陸に50万石で赴任する際の家臣として求められて加えられて北陸に一代のみの約束で付き従ってます。秀康の没後はさってます。して、この頃の大垣城攻略で遠い津軽の弘前の地から遠征に来ていた津軽為信は家臣とともに徳川につきしたがってましたが、津軽家臣の服部氏の手柄で大垣城は攻略できたのですが、ここからは僕の想像ですが(笑)私の故郷の城のある弘前の賀田の名のある所に阿弥陀如来像を信心してい僧都の名が昔は小鹿と名乗っていたそうだ、それでその子孫に当たるものが今も私に仕えてるから、これを機に弘前に来てみれば?ま誘われたのだと思ってます(笑)実際のこと津軽為信の初期、第一代の家臣の中に私の祖先名があり、それは、私の故郷の墓所にもあります。また、それよりも古い時代の五輪塔があり、この方も奥方の名で墓碑銘ですし、先の弘前のや殿様に使えていた人の奥方の墓も五輪塔。この2つの五輪塔を両脇に自然石の大きなお墓がどーんとある。上部には日輪が、掘られてあり、その下には、一蓮托生という文言が墓石には刻まれてます。苗字だけ同じである全く縁も無さそうな二つの家族が昔から同じに一つの敷地でいまもあり、また、少なくとも江戸時代のはじめ頃にやってきた後進の小鹿が同族として今に至ってます。ちなみに私は小鹿家の第34代目です。先の津軽為信の子の2代目の奥さんの身の回りのお世話などもするお仕事でしたが、その奥さんのは白取と言いますが、その方の子孫の方とは今も御縁があって親交してます、、、。長くなり申し訳ありません。で、秋田のこの土地名に深く感じるものをおぼえます。まことにありがとつございます。
小鹿徹さん。
本当に貴重な情報ありがとうございます!
わかりやすく、僕でも知ってる英傑の名前まで出てきて、たいへん勉強になりました。
あらためて秋田の「女郎出」も調べてみたいとおもいました。